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バケモンの涙 感想 ネタバレなし

 


 


千川裕子さん


トシ子さんの一念

昔、母親からポン菓子の機械で作られたポン菓子を初めて食べた思い出を聞いたことがあります。それはそれは大きな音がしたそうです。そしてなんて美味しいお菓子なんだろうと思ったと、言っていました。

その機械はあの酷い戦争の最中に、あのトシ子さんが作られたのですね。しかもこんなドラマが詰まっていたなんて。度重なる試練に負けなかったトシ子さん。周りの人達も多くの勇気をもらったことでしょう。
 
トシ子さんの一念は、トシ子さんの力であるとともに、自分のためではなく子供達を助けるんだ、というみんなの思いだからこそ持続し、運も動き、成し遂げられたんだなぁ、と思いました。いろいろ人間、一筋縄ではいかないところも読み応えがありました。

修造さんの最後や、トシ子さんが焼け野原で生き残った人に生きていてありがとうというくだりに読みながら涙が止まらなかった。あんなひ辛い歴史の先に今、私たちは平和に生きているんですね。

コロナ渦の陰鬱とした気持ちを吹き飛ばす名作。歌川たいじさん、書いてくれてありがとう。 

 

 
歌川たいじ:
ありがとうございました。スポ根のように苦難の連続みたいな小説でしたね(笑)。「本気とはなにか」を描きだしたくて、そんな物語になりましたが、エッセンスをまっすぐに受け止めていただけて嬉しいです。
 
 

 


 


NHさん


「忘れない」は「語り継ぐ」

 
戦争によって亡くなられた方がたくさんいることや小さい子供たちの命が奪われたことは学校などで習いましたが、飢餓が原因で亡くなることもあったという事実に驚きました。

私は両親から愛を受け育ち衣食住に困らない環境で生活させてもらっています。それが当たり前だと思っていましたが、この環境は当たり前ではない幸せなことなんだ、と恵まれた環境にいることにありがたみを感じるようになりました。

また、小さな子供たちのためにポン菓子を作ろうと決意し、単身で北九州に向かったトシ子さんは本当に芯のある強い女性だなと思いました。トシ子さんの生き方に深く感動し尊敬の念を抱きました。私もこんな女性になることが目標となりました。

多くの魅力的な登場人物にも心惹かれました。その中でも特に鮮明に残っているのは三浦さんです。終盤のシーンで、地元である八幡が大好きにも拘らず八幡大空襲によって母と妹を亡くした三浦さんの絶望がひしひしと伝わってきて、読んでいて辛くなりました。
 
私は、北九州市八幡東区で生まれ育ちました。八幡という生まれ育った街が私も大好きなので、その街が空襲を受けたと想像すると三浦さんの悲痛さが痛いほどわかります。家の近くには公営墓地があり戦災殉難者之碑が立っています。そこには八幡大空襲で亡くなられた千八百余りの殉難者が祭られていて、毎年八月八日には慰霊祭が行われています。
 
小さいころ父に連れられ慰霊祭に参加してから八幡大空襲について興味を持ち、中学生のころ地域の方に取材などして調べたことがあります。
その中で実感したことは、慰霊祭をはじめ戦災を語り継ぐ場や人が減ってきているということです。若い人たちはほとんど戦争がもたらした悲劇を表面的にしか知らないと思います。「知らない」ことは仕方がないことですが地域の方々が継いできた慰霊祭などを途絶えさせてはならないはずです。

こういう気持ちがあったからこそバケモノの涙を読み一番に、戦争という悲劇を繰り返さないために戦時中の記録を残すことが大切だと強く感じました。過去の負の記憶を風化させないために、この本は未来へ語り継ぐべきだと思いました。ふとした時にこの本を読み返し、戦災を忘れないようにしたいです。
 

 

 
歌川たいじ:
ありがとうございました。取材を進める中で、さまざまな北九州の方々との出会いがありました。東京育ちの私には、みなさんの郷土愛が非常にまぶしかったのを憶えています。平和を守り抜きたいという気持ちは、こんな郷土愛から生まれるのかもしれないなぁと思いました。そんな思いから、八幡大空襲を物語のラストに語ることにしました。八幡の方に受け止めていただけて嬉しいです。経験がなければ知り、語っていく、そんなことを私もやっていきたいと思います。
 
 

 


 


じろりんさん


ささやかな日常に心打たれた

 私は、幼少の頃から、ガラスのうさぎ、はだしのゲン、アンネの日記等児童文学で読み出していた。祖母や父の持っていた昭和の写真集のような雑誌で戦争時代のものを何度も借りては読んでいました。
大人になっても早乙女勝元先生を読んだり、父と情報共有して戦争物は読んできました。
何故かわからないのですが、子どもの頃から読まなくてはならないというか、そういう思いにかられているというか。前世になにか関係しているのではないかと思っているぐらいに。
 
今回歌川先生が戦争時代の話を書いてくれる。これは絶対に読みたい!!!と。
正直ポン菓子のことは私は知りませんでした。大人も生き抜くのが大変な時代に、子どもたちがどれだけの被害を受けてきたのか。トシ子は確かにいいとこのお嬢さんで戸畑まで行く道筋は回りの大人が結んでくれた。けれどもトシ子の情熱熱い思い、一念がなければ成し遂げられなかったこと。戸畑に渡ってからは自分の力で周りを巻き込んで行ったこと。
そこに、いつも修造さんがそばにいてくれたこと。
 
戦時中は自分の好きな人と結ばれる、幸せな家庭を築くことなど夢のまた夢だろう。トシ子さんも修造さんもお互いの気持ちよりも何よりも、今を何とかしたい!と言う思いで動いている。修造さんと幸せになって欲しかった。
この話は恋愛話ではない。でも戦時中でも日常はある。そのささやかな日常に心打たれた作品でした。
絵が描ければ、亡くなる知らせの前に修造さんが訪ねてきてくれた暖かな日差しとともに立っている笑顔の修造さんを描きたいなぁと思います。
文章苦手でとりとめのない文章になりましたが、二度と愚かな間違いを繰り返さないためにも多くの人々に読んで欲しい1冊だと思います。
今回はありがとうございました。
 

 

 
歌川たいじ:
ありがとうございました。修造さんには私自身が男の子に望むものを、ぎゅうっと詰めて描きました。本当に、ささやかな日常の中で気持ちを育てて、結ばれてほしかったです。修造さんがいなければ、トシ子さんも思いを遂げられなかったかもしれません。思いを共有していただきまして、有難うございました。
 
 

 


 


じろりんさん


ささやかな日常に心打たれた

 私は、幼少の頃から、ガラスのうさぎ、はだしのゲン、アンネの日記等児童文学で読み出していた。祖母や父の持っていた昭和の写真集のような雑誌で戦争時代のものを何度も借りては読んでいました。
大人になっても早乙女勝元先生を読んだり、父と情報共有して戦争物は読んできました。
何故かわからないのですが、子どもの頃から読まなくてはならないというか、そういう思いにかられているというか。前世になにか関係しているのではないかと思っているぐらいに。
 
今回歌川先生が戦争時代の話を書いてくれる。これは絶対に読みたい!!!と。
正直ポン菓子のことは私は知りませんでした。大人も生き抜くのが大変な時代に、子どもたちがどれだけの被害を受けてきたのか。トシ子は確かにいいとこのお嬢さんで戸畑まで行く道筋は回りの大人が結んでくれた。けれどもトシ子の情熱熱い思い、一念がなければ成し遂げられなかったこと。戸畑に渡ってからは自分の力で周りを巻き込んで行ったこと。
そこに、いつも修造さんがそばにいてくれたこと。
 
戦時中は自分の好きな人と結ばれる、幸せな家庭を築くことなど夢のまた夢だろう。トシ子さんも修造さんもお互いの気持ちよりも何よりも、今を何とかしたい!と言う思いで動いている。修造さんと幸せになって欲しかった。
この話は恋愛話ではない。でも戦時中でも日常はある。そのささやかな日常に心打たれた作品でした。
絵が描ければ、亡くなる知らせの前に修造さんが訪ねてきてくれた暖かな日差しとともに立っている笑顔の修造さんを描きたいなぁと思います。
文章苦手でとりとめのない文章になりましたが、二度と愚かな間違いを繰り返さないためにも多くの人々に読んで欲しい1冊だと思います。
今回はありがとうございました。
 

 

 
歌川たいじ:
ありがとうございました。修造さんには私自身が男の子に望むものを、ぎゅうっと詰めて描きました。本当に、ささやかな日常の中で気持ちを育てて、結ばれてほしかったです。修造さんがいなければ、トシ子さんも思いを遂げられなかったかもしれません。思いを共有していただきまして、有難うございました。
 
 

 


 


タヌキ猫さん


トシ子さんが引き寄せたもの

 
子供の通院の付き添いに読んでいましたが
涙が溢れてきて困りました。

サト子さんの『戦争は、いややね。』の言葉が私の胸に重く残りました。

国のメンツや武器商人の儲けの為に払う犠牲の何と多い事か。

ただ穏やかに暮らしたい人々が一番苦しむなんて馬鹿げています。

私たちがこんな事を言える様になったのも
先の大戦の沢山の犠牲があったからかもしれません。
大切なものは失くして初めて気付くなんて悲しいですね。

トシ子さんの情熱に
やはり必要だと感じていた方々がトシ子さんに吸い寄せられて行ったんだと思います。

実業家のお父様、自分らしさを求めて橘家を出たお母様の血を引くトシ子さんに与えられた使命だったのかなと感じました。

美しい、トシ子さんのの敵だったはずの芳乃さんが、トシ子さんの覚悟を知って悪知恵を授けてくれたシーンには
色んな修羅場を潜り抜けてきた女性の強かさに拍手を贈りたくなりました。
最後にお婆様と芳乃さんが一緒に泣くなんて
トシ子さんが2人を引き寄せたんだなと嬉しくなりました。

沢山の大切な人を亡くし
それでも諦めずに前に進んだトシ子さんを
また沢山の人達が支えて
あの大きな事業を成し遂げたのですね。

大きな身体と大きな愛で、めいいっぱい『いとはん』を守ってきてくれたヤエさんも素敵でした。

そして、やっぱり修造さん。
生きて、ポン菓子を食べてほしかったですね。
 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。登場人物ひとりひとりを愛してくださったのだと感じ、非常に嬉しいです。お察しの通り、本気の人に人は引き寄せられていくのだという人生模様を描こう、伝えようと思い、必死に書きました。深く深く受け止めていただきまして、ありがとうございました。
 
 

 


 


:ぽん吉さん


戦争は終わっても

 
第二次世界大戦中の
実話に基づいたフィクションで、
物語の中に作者の言葉で作者の
信念が散りばめられています。

それは諦めない一念が
現実を変える、ということです。

女性の立場は低く、自由はなく、
親が決めた相手と結婚するのが
当然だった時代、
戦争で軍部が言論を規制し、
言いたいことを言うと、
捕まり、牢に繋がれ、
拷問されることもあった時代に
何の罪もない
自分が縁した飢えた子どもたちを
救う、と決めたトシ子の
意地と根性と諦めない行動が
身近な人の死をも乗り越え、
ついには
雲上人の真田翁に直談判して、
ポン菓子の機械を作る、という
奇跡とも思えることを
成し遂げた現実にあった事の話し。

読んでいて辛かったのは
赤ん坊とお母さんが
焼け死ぬところの描写です。

また、日本が某国に食料援助を
するときにコメだけ送っても、
きれいな水と燃料と鍋釜が
無かったら、コメが
食べられないやん、と
思いました。

戦争は人の心を麻痺させます。
私の父方の祖母も戦争を生き抜いて
きましたが、事あるごとに着物と
交換した米を大阪の京橋駅で
憲兵に取り上げられた
話しを繰り返し、
明治天皇の写真を飾っているのを
私の母に咎められ、言い争いに
なるのが本当に嫌でした。

戦争は終わっても、傷ついた人の
心はなかなか癒えることはなく、
負の感情は家庭内を暗くし、
次の世代に確実に引き継がれます。

今も世界では戦争がなくなりません。

本当に戦争はやめてほしいです。

紛争地帯に行って、戦争を
止める事はできませんが、
せめて家庭内では言い争いが
あっても、次の日には笑える、
まずは家庭内平和を
目指したいです。
 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。戦争が遺す心の傷は、社会の中で軽視されてきたと思います。イラク戦争などではアメリカは兵士を抗うつ剤漬けにした…なんて話を聞いたりしますが、民間の人間(特に被害地域の)にも深い傷が残るものだと思います。そんなところにも思いを馳せつつ読んでくださったこと、感謝いたします。お祖母様のお話、どんなお気持ちだっただろうと心に染みいります。
 
 

 


 


:いーちゃん


生きる目的を探し出すヒント

この本を手に取ったのは、作者のブログを以前から読んでいて、そ の中でいとはんのポン菓子という、この本の基となる物語を連載し ていたのを見たのがきっかけだった。さらに、 書籍化するにあたって、作中の時代背景、つまり太平洋戦争前後の 当時の資料や証言を調べる事で、いとはんのポン菓子という一連載 から壮大な物語へと変わった様をこの目で確かめたいという欲求も あった。

大阪の旧家に生まれた橘トシ子は、幼い頃から機械について興味の ある一風変わった女の子。19歳になり国民学校の先生となったト シ子は、生徒達の飢えに直面し、 飢えから救いたいと思うようになる。ある日、ひょんな事からトシ 子は子どもを飢えから救う方法を思い付く。それは、 穀物を菓子に変える機械-穀物膨張機-を造り、子ども達に食べさ せる事だった。持ち前の行動力と周囲の力を得て奮闘するトシ子は 、機械の材料・鉄の集まる北九州へ行く決意をするも、幾多の困難 が待ち受けていた。果たして、トシ子は子ども達を飢えから救える のだろうか。

この物語の全編を通して伝わってくるのは、自分らしさを掴み取っ ていく過程において、いかに自分の周りの人間関係が重要になるか という事だ。

 
例えば、主人公のトシ子は、父の妾である芳乃と物語が進むにつれ 対峙しなければならなくなるのだが、芳乃はトシ子の世間知らずな 言動や考え方に対して否定的な為にはじめはわかり合えない。 だが、後にトシ子のある行動を知った芳乃はその評価を変え協力的 になるのだ。まさに手のひら返しで痛快である一方で、わかり合う には行動が伴わないといけないのかと考えさせられる。
言行一致と いう言葉があるが、トシ子の言動や考え方を芳乃に理解させ協力さ せるきっかけとなったのはトシ子の行動力にあった。そして、協力 的になった芳乃のとった行動により、トシ子はトシ子自身も知らな い自分の一面を知る事になった。つまり、 トシ子は芳乃という人間関係において、自分らしさを掴む気付きを 得られたとも言えるのではないだろうか。

こんな風にして、トシ子がポン菓子を子ども達に食べさせ飢えから 救うという目的を果たすまでに数々の人間関係を経験していく。そ の中で自分らしさを掴む気付きを得ていく所に、読んでいて胸が熱 くなった。
私は、自分らしさとは何だろうと思い悩む人達に、そして、何の為 に生きているのだろうと自問自答している人達に、ぜひこの本を薦 めたい。この物語を読み終える頃にはきっと、トシ子の生き方を通 じて、自分も自分らしさを掴み取りたいと意欲に燃えたり、 もしくは、生きる目的を探し出すヒントを得たりするはずだから。 
 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。物語の大きなエレメントとして、「自分らしさをつかみとる」というものを今回は描きました。どれだけ足掻かないと得られないものなのか、トシ子さんが気づきを得るきっかけとはなんだったのか。仰るように、人間関係の中でこそ、つかみとれるのだと私も思います。無人島にひとりでいたら、自分らしさはいらないですもんね。作意を深く受け止めていただけて幸甚です。
 
 

 


 


:フクちゃん


本気の熱意が人を動かす

読み手を惹き付ける魅力を最大限に持った本だと思った。 ポストに届いて、帰宅してから、夕飯もそこそこに数時間で読破した。初めての経験だった。
 
「いとはん」と呼ばれる大阪の旧家の生まれの主人公トシ子は、太平洋戦争の最中、国民学校の教師となり、栄養失調で倒れていく子供たちを救うべく、少ない燃料で大量の穀物を食べられるポン菓子の存在を知る。
その切っ掛けとなった、トシ子に投げ掛けられた言葉に胸が締め付けられた。
「そんな米もろたかて、先生、炊く燃料がありませんがな」
「こんなん、ええとこのお嬢さんには、分からへんやろ」
栄養失調で瀕死の教え子を救うべく、僅かな穀物を持参したトシ子に、その子の母親が冷笑と共に投げかけた言葉だ。
戦争で不足していたのは食料だけではない。それを煮炊きする燃料すら足りなかったという事実に、恥ずかしながら私は初めて気付いた。
 
「一念だよ、トシ子ちゃん」
ポン菓子製造機について詳しく話を聞きに行った天野教授の一言が、話の全般に渡って大きく印象に残った。
 
「いとはんらし、してなさい」
そんな周囲の言葉に反発するように奮闘するトシ子はまだ 19 歳だ。
いとはん、という言葉が示す通り、お嬢さんという年齢のトシ子だが、少ないながらも各方面の協力者の元、鉄工の町、北九州の戸畑に赴く。
一人でも多くの子供たちを飢えから救いたい。
その行動力と熱意に、私は心から感服した。
戦時下で、誰もが自分の事で手一杯だったであろう、その状況下で自分なら果たして同じ事が出来たろうか。いや、出来なかった筈だ。
 
北九州でも良くしてくれる人には恵まれたが、中には憶測だけで悪く言う人もいる。
逆境、逆風の真っ只中かと思われたが、転機は意外な所で訪れる。
それまでトシ子に対して舐めた態度で、のらりくらりと仕事をしていた職工達が、彼女が目の前で使えなくなった旋盤を直した事でトシ子を見直し、心を開き、生まれ変わったかの様に仕事に打ち込み始めた事。
日本製鐵事務局の三浦さんがスパルタとも言える工場経営についての個人授業を担ってくれた事。
(余談だが、私はこのシーンで、それまでやる気を見せなかった稲吉さんがめきめき頭角を現し、授業に着いて行く描写ににやりと笑みを浮かべて文字を追いかけた)
 
何より印象に残ったのは、トシ子に対して良い態度を取っていなかったハル子ちゃんが、馴染みのツタ代さんの酒場で行ったトシ子の、皆に対しての血気迫った大演説の末の土下座に、共に声を枯らして、「お願いします!」と声を出したシーンだった。
それまでトシ子に対して敵意、得体の知れぬ余所者を嫌う態度を取っていた婦人会の女性達がしきりに、「協力しちゃりっ!」と、声を揃えて男衆を鼓舞する描写には、じんと目頭が熱くなった。
 
ポン菓子製造機に関して、八方塞がりになったかと思えたその時、ツタ代さんの「真田翁には、ウチが話をつけちゃる」と言ったシーンからの怒涛の展開には、頁を捲る手がもどかしかった。
それまで何度か接触を試み、その都度ご破算になった、日本製鐵の真田翁との面会が、意外な所で繋がったのである。
面会した所、迫力のある 閻魔様 然とした真田翁が、「よか考えやないか!その機械、作っちゃろ!」と、頼もしい一言を発して、私は心の底から安堵した。
日本製鐵を後にして、夏空の下、トシ子が機械の完成を待たずして亡くなった、大阪の修造さんに心の中で叫び、報告するシーンでは、入道雲の白さと空の青さがつぶさに目に浮かぶ様であった。
 
その後、大阪の芳乃からの、「いやな予感がする」という、一滴の墨を落とした様な不穏な手紙が届き、広島には新型爆弾が投下され、そんな中でいよいよポン菓子製造機こと穀類膨張機が完成する。
酒ばかり呑んだくれていると思われた、戦車のフタを作るのが好きで、細かい仕事はよぉせん、と言った信次さんの本気の仕事が成し遂げた技であった。
朗報と共に、八幡が空襲にあったという悲報が飛び込む。
製鐵所の集まる、三浦さんの故郷が焼け野原に変わり果ててしまう。
その中で、母と妹を亡くした三浦さんの慟哭が胸に響いた。
 
戦争は、些細な日常でさえ、いともたやすく奪い去って、破壊してしまう。
エピローグは、修造さんへの手紙で幕を閉じる。
その優しさに溢れた後日談に、心からしんみりした。
全て、本気の熱意を持って動き、人を動かしたトシ子の成果だと思った。
そんな中でも、大阪で仲の悪かった祖母と、父親の愛人の芳乃が肩を並べてポン菓子を食べ、トシ子の功績を讃え合うシーンが印象深かった。
今年は戦後 75 年になる。戦争をその身でつぶさに体験した方々も少なくなっていく。
 
コロナ禍で騒がしい世界の情勢も、今後どうなっていくかは闇の中だ。
そんな中で、この実話を本にして、戦争の悲惨さ、また起こしてはいけない過ちとして私達に伝えてくれた著者には、心の底から感謝の気持ちでいっぱいである。
 
読み終えた後に、同封されていたカードに描かれたトシ子の、向日葵の様な満面の笑みに、救われた様な気持ちになると共に、私も自分らしい生き方を見つけて行きたいと感じた。

 
 

歌川たいじ:
ありがとうございました。物語全般を深く受け止めていただけて、非常に嬉しいです。そもそも、戦争はなぜ起こるのか。そんな疑問を利子さんは抱きます。全体を見渡すことは難しいことながら、その一端を知るだけでも、戦争とはなんなのかを自分なりに受け止め、自分の生き方を決めていくことはできるのだと、私もトシ子さんから教えられました。
 

 


 




 
 
 
 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。我々ホモ・サピエンスは、危機に陥ったときに助けあうように、遺伝子にプログラムされているそうです。そのようにプログラムされている種族が氷河期を生き延びて、我々がその子孫なんですね。「私はまだまだ」とお書きになっていますが、いざとなったら大活躍されるかもしれませんね。
 

 


 




 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。戦争映画を観たときに、特に邦画を観たときに、なんか私とは違う視点だなと思うことがよくあります。特に叙情性の高いものは、そう感じることが多いです。悲しく美しく描かれているものが、私には、「そんなのどうでもいい、殺し合うな」と思えてしまうのです。そんな思いを受け止めていただけて幸甚です。
 

 


 


:こたかん


𠮷村トシ子様へ

トシ子さん、初めまして。

歌ちゃんの小説「バケモンの涙」を読んでトシ子さんの半生を知ることができました。
”自分らしい”ことへの疑問を持ちながらも、飢えていく子供たちのためにポン菓子製造機を作るために単身で九州に乗り込んだのには驚きました。
修造さんに子供たちのことを任せるとはいっても、今まで接してきた教え子たちや家族、特に弟さんや妹さんと別れることはやはり寂しかったのではないでしょうか?

大変なことがたくさんあったと思いますが、特に読んでいても辛かったのは空襲のときに、燃えてしまうお母さんと赤ん坊を見て何もできなかったところと、修造さんが亡くなったことを知った後、職工さん、その奥さん達を集めて、泣きながら自分の思いを吐露し、土下座して協力を頼んだところです。私も想像しながら涙が滲んでしまい、それでも、先が気になってしまい、涙をふいて文字を追いました。
その思いが通じて、ツタ代さんの伝手で真田翁に会えたときは、本当に嬉しかったです。

また、戸畑に行く前にも、図面を買ったり、母親の肖像画を売ってお金を作ろうとしたり、自分にできることをやろうとしたことが、芳乃さんやお祖母さんを動かしましたね。最後には 2人がポン菓子を一緒に食べるところは、想像がつきませんでした。

戦争には負けるのではないか、なぜいつまで、こんなことを続けるのだろう?と心の中では思っても決して口には出せず、敵機の襲撃から逃げまどい、戦地の兵隊さんは 上官の命令に従って戦い、飢え、多くの人が命を落としました。 このことは、真田翁がトシ子さんに会った時も言っていましたね。
ダメになることがわかっているのに、よくするために、何をどうすれば良いのか?誰に言って、どうやって行動すれば良くなるのか?悶々とした思いを抱いている。
 
この歯痒さは、現代の私たちにも変わらずあります。
文明の利器が発達して、遠くにいる人、会ったこともない人とも簡単に話をできる世の中にはなりましたが、核家族化が進んで親子でも話をすることがなかったり、近所にどんな人が住んでいるかも知らなかったり、身近な人と一緒に過ごすことが本当に少なくなってきたんじゃないかな、と思います。
私も自分の意見を言うのがとても苦手で、意見というか、ちょっとしたことでも何か言うのは、気心がしれている人じゃないと言えません。相手の反応がなかったら、こんなこと言うんじゃなかったかなって落ち込むんです。 そして、自分がどんな人なのか、何をしたいのかもよくわかっていません。

だから、修造さんがトシ子さんから 「子供たちを生かしているほうが修造さんらしい」と言ってもらえたことが羨ましかったです。修造さんがその後の手紙にも、そのことを書いてきたのは、トシ子さんの言葉を大事に生きられたからではないかと思うのです。
何かしなきゃいけない、何をしたいのかわからない、自分は一体何者なのか、私も毎日のように自分に問いかけています。
それよりも、まずは、身近にいる人と話をすること、誰かのために何かすること、そしたら、私にも少しずつ見えてくるのかな?と今は思っています。
 
トシ子さんのお陰で、今の私たちの親や、祖父母たちが生きられたかもしれません。あの時代を生き延びてくれて、ありがとうございます。そして、まだまだお元気でいてくださいね。

 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。確かに私も、戦時中と今のこの新型コロナ禍がなんとなく重なって思えることがあります。さまざまな政府の対応を見ても、「自分らしさを見失わない」信念のようなものが感じられず歯がゆい思いをしたりしています。社会を変えるのは、いつでも本気のひとりからだと思い、私も「できること」を見つけてはやり続けていたいと思います。
 

 


 


:玄界灘の女


私もトシ子さんのように

私はこの本を読んで2つのことを思いました。

1つ目は方言。
私も九州に住んでいるので、方言のこと読めるかなと思いましたがやはり分からないとこもあり検索や母親にどういう意味なのか教えて貰いました。出てきた方言の中で疑問になったのは、「いとはんらししなさい」という方言です。何回もでてきた方言で、トシ子さんもこの言葉に聞き馴染んだ言葉だと思います。
私は何回もトシ子さんに言わなくていいんじゃないかなと思いました。トシ子さんはトシ子さんらしく生活しているのに、何故ヤエさんから言われないといけないんだろうと疑問になりました。

 2つ目は、空襲のこと。この空襲のことを描かれた際、私のひぃばあちゃんのことを思い出しました。私が中2の頃、ひぃばあちゃんから空襲のことに関して教えて貰いました。私はその頃空襲があった話とか一切興味が持たなかったです。 
しかし、今思えばもっと空襲のことについて聞いておけば良かったと後悔しております。空襲の時、ひぃばあちゃんは何をしていたのかどんな生活をしていたのかトシ子さんみたいに何かしていたのかなと本を読みながら思ってました。 
もしも戦争が今あったら、私は何をするんだろうか、トシ子さんのように他人のために何か作ろうと思うのかと考えました。私だったら、皆さんを安全な場所に避難させたり周りと一緒に何か手伝ったりすると思います。空襲はおきてはいけないものだと思ってます。
 
あとこの本を読んで心に残ったことがあります。それは「自分らしさてなんやと思て、私ずっと答え探しててん。探しても探しても見つけられへんかった。いま、それがなんでか分かったんや。答えは探すもんやないねん、見つけるもんでもない、決めるもんなんやって。」です。この言葉はこの本の名言だと思いました。
私も自分らしさとは何か考えていて、トシ子さんの同じで探しても見つかりませんでした。
見つけるんじゃなく、決めるものだとこの本で知りました。私もトシ子さんのように自分らしさを自分で決めて何かのために頑張ろうと思いました。
 
最後になりますが、空襲はおきてはいけないものだと思いました。トシ子さん、ポン菓子の機械を作ってくれてありがとうございましたと言いたいです。作ってくれたお陰で、食べ物がない人たちにポン菓子があげられますし勇気を与えてくれたと思います。

 

 

歌川たいじ:
ありがとうございました。敗戦から75年、太平洋戦争を経験された方も数少なくなりました。戦争を美しく悲しい物語として描いた作品はたくさんあり、もちろんいい作品もあるのですが、銃後の人々がどのような目に遭わされたのか、それがなんのためだったのかを描きたくて、本作に込めました。受け止めていただいて幸いです。